20121205

The Great Gatzby (1974)




先週、1974年の「グレート・ギャッツビー」を観た。
丁度今フィッツジェラルドの短編を読んでるから良い機会だと思ってね :)
新しいバージョンも近々リリースされることだし!





だがよ。
訳本を読んだはずなのにすっかり忘れてしまった。ガソリンスタンドの下りとか、「あれ、そうだっけ?」と思うことしばしば。ただ、共通するのは、読後あるいは観賞後に、なんとなく寂しさが残ること。
フィッツジェラルドの作品って、前にも書いた気がするけど、キラキラした文体なんだけどその背後で起こってる出来事って結構暗かったりする。そういった文体や、彼の特徴でもある「ジャズ・エイジ」の描写が、作品全体に漂う絶望感とか悲壮感を、一見誤魔化しているように見えるけど、かえって目立たせていると思うんだ。

この映画もそう。
始まりはニックがボートに乗ってるシーンからなんだけど、そこで流れるBGMはギャッツビーとデイジーの仲を説明している。

". . . Gone is the romance
That was so divine
'Tis broken
And cannot be mended
. . .


What'll I do?
What'll I do?
With just a photograph 
To tell my troubles to?


When I'm alone
With only dreams of you
That won't come true
What'll I do?"

「…あの恋は去ってしまった
とても素敵だった恋が
それはもう壊れてしまって
修復することはできない…

…僕はどうすればいい?
どうすればいい?
苦しい時に語りかけるための
写真一枚だけで

僕が一人の時
叶うことのない
君の夢だけがある時
僕はどうすればいい?」

流れている間、デイジーの顔写真やスクラップが映し出される。つまり、この歌はギャッツビーの現状だということがわかる。お話の途中でギャッツビーとデイジーは元々面識があって、戦争(WW1)から帰ってきたら結婚しようって約束してた事が判明するんだけど、その伏線とも言える。実際、知らない女の子の新聞記事集めたり、写真飾ったり、その娘の家の対岸に住んだりってストーカーのレベルを超えてるからね! 仮にこの話知らない人がみたらとんだ変態だと思うに違いない笑

で、同時にここからこの映画の結末までも分かってしまう。
その時にはどうすればいいって言っても、もう殺されちゃうけども。


この物語に漂う孤独感っていうのはギャッツビーの孤独がメインなのは明らか。少し現実離れした、無機質な振る舞いと完璧な容姿は周りとは異質。彼が岸辺に立って対岸を見つめるショットはローアングルで写してる: つまり彼の威厳や"greatness"を強調してて、けども暗い夜の中遠くから撮ることで彼の孤独をも強調している。人物関係を見ても、ギャッツビーはアウトサイダーであることがわかる。この物語の中でニックはデイジーの従兄弟だし、彼女と結婚したトムも自動的に家族に入るし、ジョーダンは元からデイジーの友達。ギャッツビーはツテを使ってでしかこの輪に入れない。


また、あのお屋敷に一人で住んでる事、パーティーの主催者にもかかわらず自ら参加しない事からも、彼の孤独を感じることができる。物質にまみれるだけで、彼はお金持ちでもデイジーを得ることができなかった。くらい。"Rich girls don't marry poor boys!" と言われ、自分と駆け落ちすると言った翌日にトムと結婚したデイジーに振り向いてもらえるようお金を得たはずなのに。


そもそも成り上がり者なギャッツビーは嘘で彼自ら他と距離を置いているように見える。彼の生い立ちがコロコロかわるけど、不信感しか生じないよね。あとニックとの初対面の時、会話がぎこちなかった。ニックはデイジーと繋がってるの知ってたから呼び寄せたまで。それはそういった嘘、繋がりやお金はデイジーを得るための手段でしかないから。大胆な浪費も厭わない。お金をニックに払おうとするのもその一環。他人はそれを見て、ギャッツビーが理解できないのだと思う。誤解されてしまうのも仕方が無い。

最後のシーンで、最後デイジーとトムがなんとか家族関係を修復した姿が見られる。トムはデイジーの罪(マートルをひき殺した)なんて知らないし、デイジーは何事もなかったかのように振舞ってる。彼らにとって、ギャッツビーっていう輩はどうでもいい人だったってことがよくわかる。彼の真の孤独が浮き彫りになってるのはここなんだと思う。本人不在の中、あれだけ存在感を放っていたギャッツビーは彼らに何の影響も与えることができていない。 彼の正体全て をきちんと知ってるのはニックだけで、実の父ですら彼の孤独を知ることはなかった。豪邸は近所の子供たちに荒らされる対象にまで落ちぶれてしまう。(ご丁寧に'SHIT'とまで書いちゃって…)



ここで批判されているのは、現代の個人主義的で利己的な社会だと思う。ウォルフシャイムのセリフに "Let us show friendship for a man when he's alive, not after he's dead"とある。死んだらそれでおしまいという考え方は、人との密なつながりを拒否しているようにみえる。自分たちが巻き込まれたブッキャナン夫妻の事もジョーダンは次のように批判する:"They smash things up . . . leaving other people to clean up the mess"と。彼らは壊すだけ壊して、その責任を負おうとしない。本来ならば修理屋の憎しみは彼らに向けられるはずなのに、代わりにギャッツビーが責任をとり、殺害された。



この映画は道徳的に堕落している若者たちを描いている:トムの不倫や、修理屋の殺人、デイジーの不倫… それに関連してガソリンスタンドの前にある眼鏡の巨大広告は、この映画の中で象徴的。悪事も全てお見通しだ!と言わんばかりに、二つの目がクローズアップで描かれてる。夜の間も、何もない道路の脇に煌々とした明かりに照らされている。修理屋も"You can't fool God. God sees everything"とそれを見ながら言ってる。この広告、堕落した若者たちを咎めているよう。けれど見ているだけで、実際なにもしない。それは当時の社会全体がそれを容認していたと捉えることができる。不倫とかね。



もしかしたら、ギャッツビーは違法な仕事を行っていたから罰せられたのかもしれない。けど、だとしたら、神様は不公平だ。真っ先に罰せられるべきなのはデイジーとトムだもん。結局、損をするのは「何も持っていない人たち」であり、ギャッツビーのように努力して苦労をしたものたちは報われない。必ず、眼鏡という「持っている人たち」のフィルターを通してでしか社会は物事を見ることができないから。修理屋が「教会に行ってない」と言ってるように、もう神を信じない世の中になっている。その中で道徳は失われちゃったということ。


そんな神様のいない世界で、"Can't repeat the past? Of course you can!"と言ったギャッツビーは最後まで希望を捨てなかった。彼はデイジーのいう通り、ロマンチストなんだろうな。夢の中でひたすら生きている人間。デイジーの娘を見た時の反応は 良いものじゃなかった。あの瞬間彼は現実に呼び戻されたはず。けど彼はそれさえも愛は越えられると思ってた…おバカさん!笑 最後に対岸に手を伸ばすギャッツビーが可哀想でならなかったなあ。

あの青いライトについてニックは最後話してるけど、きっとそれがギャッツビーにとっての希望の印だったんだろう。ゆるやかに青くチカチカして、まるで誘ってるかのように。デイジーのオッケーサインみたいにね。けど、あれは誰か特定の一人に発しているものじゃないこと、きっとギャッツビーは気づけなかった。浮遊しているすべてのもの(デイジーに恋している人みんな)に対する合図だったんだろう。

それにしても、ニックの役割はなんだろうって思う。神を超えた、全知能の語り手なのかな?それでもギャッツビーの気持ちまで知ってるわけではないけど。なぜ彼の視点から語られるのか。一つには冷静な第三者の視点が必要だったから?それ以外に何かあるのかな。それぞれの人物の過ちを把握している人物が必要だったから?彼は観客の役を与えられている、この壮大な悲劇の傍観者にすぎないのかもしれない。


エンドロールの時に流れる歌。
ビックリするくらいエンディングの雰囲気とはミスマッチ。これがまた、楽しさの裏の悲しみや寂しさを表してて、余計に切なくなりました。映画の途中でピアノマン的居候がずっと弾いてるやつなんだけど、あのシーンはピアノマンが滑稽だった。
あとダンスしているシーンの見せ方が素敵!足元だけ映してたり、めっちゃエキストラ入れてやってたりして、やたらとすごい。当時の雰囲気がよく分かる!
ちゃんちゃん。



Dir. by Jack Clayton
Music: Nelson Riddle
Cinematography: Douglas Slocombe

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